| 現在のタジキスタン国境において特徴的な円筒と丸い円錐形の形をした土器の容器を含むアケメネス時代(紀元前6世紀から4世紀)の諸層が1950年から1951年,M. M. Dyakonov と N. N. Zabelina(Dyakonov M., 1953年; Zabelina, 1953年; Dyakonov M., 1954年)によってKalai Mir都城(Kabadianの中央地区)において初めて明らかになった.そして,タジキスタン南部では,さらにいくらかの紀元前5世紀から4世紀の定住・農業居住地が発見され,その中ではVakhsh渓谷にあるBollaytepe(Zeimal T., 1971年)が注目されねばならない.そこは地層学的に初期の諸層を分割できる場所であった. Gissar山脈から北へ,この時代の都城や居住地は1980年(Negmatov - Belyaeva - Mirbabaev, 1982)にKhavatak地方(Ura-Thbin地域)において,Nurtepa都城の発見まで知られないままになっていた.それは,南東からGolodniステップに侵食している黄土と土砂の低い川岸の真中部分にあった.プランにして半楕円形(18ヘクタールの区域)のNurtepa都城は壁で防御され,自然の起伏に巧みに合わせられている.多くの泉が水を(土手のふもとに沿って流れる)小さなNijhonisay川に供給し,さらに都城の中心部を通る流れに注ぐ.このように,Nurtepaの蹄鉄型をした城郭は敵から壁だけでなく水−東はNijhonisay川沿いに,南に沿ってはその支流に,西に沿っては堀によっても守られていた. 発掘は,その領域に馴染んでいった最初の痕跡による複雑な歴史をもったNurtepa都城−遺跡が青銅期に関わるものであることを証言している.紀元前6世紀から4世紀の諸層はNurtepa地域全体で記録された.その当時の住居の基本的型は,黄土の壁・縁の補強に矩形の日干しレンガが使用された半地下であった.陶器は手捻りで(時には布製の型が利用され)またロクロを使用して作られた.青銅製品とともに鉄も発見された.紀元前3世紀から1世紀,都城には基礎を施した建物が築かれた.器の工作機械の量が増加し,その質も向上した.紀元後1世紀にはおそらく泉が涸れ,ここでの命脈は尽きた.中世初期には都城の南部分は墓地(骨や器の入った埋葬の甕)として使用された. Nurtepaでの1980年から1983年にかけての発掘はもちろん,その研究の第一段階にすぎない.遺跡の地層学的な位相と土器の年代学的尺度はより詳細な研究を予期させる.都城の建物の性格と異なる時代におけるその富の度合いについての研究を継続する必要がある.「輸入」製品の発見は,予備的年代判定についての重要な改定をもたらしたかもしれない.紀元前1千年紀中葉古代層の大まかな年代測定は充分にしっかりと確立されている.しかし,今後,この時代の資料の中では,幾らかはやいものとおそいものとを区別することが間違いなく可能となるであろう.この居住地の住民と隣人たちとの関わりについての問題はその答えを予期している,しかし,すでに予備的結果においても,すぐ近く−Syrdari渓谷地区の山裾の丘に住んでいた遊牧住民との非常に近接した関係が確認される必要がある. そのような遺跡の一つ−Karamazar山脈の麓に位置するDashti Asht古墳はE. D. Caltovskiyによって1966年から1976年に調査され,紀元前8世紀から3世紀の資料がもたらされた.全ての古墳においては,砂の盛り土(高さ0.4から1.5メートル,直径4から12メートル)をともなう500以上の丸石を数え,それらの中で250以上の墓(48の墓標を含む)が発掘された.多種な埋葬は墓の構造で区別される.最初期のグループ(紀元前8世紀から7世紀)は「石室」中の単独埋葬からなる.浅い地面の墓における集団埋葬は紀元前6世紀から3世紀に関連する.そして,最後に第三のグループ−地上の石造り構造物(kurumakh)中に集団や単独での埋葬−でたいへん広範な,紀元3世紀の限界から紀元後7世紀の時代判定ができる.しかし,このグループの幾らかの埋葬は狭い時代判定を確定することに成功している. 紀元前1千年紀における中央アジアの人々の中で,Saka族が重要な場所を占拠していた.タジキスタンの領域内ではその研究について1946年から1956年(中断を含めて)にA. N. Bernshtamの探検が取り扱った.新たな資料の中で,Isfary渓谷からの疑いなくSakaの伝統に関連した任意発見物が,またB. A. Litvinskiyの東パミールにおける探検で調査された紀元前6世紀から3世紀の古墳からの資料も注目されるべきである.東パミールの大多数の古墳(石で覆われ宗教的場所である約320の古墳)は低い盛り土あるいは石の覆いがあり,しばしば1,2の石の輪を,まれには角に高い積み石を伴う.大多数の埋葬は屈葬で浅い(0.5から1メートル)土の穴である.一般的には,埋葬は単独で,二人,多数あるいは段状はまれである.一般の古墳では副葬品は少なく質素である.ただ個別の古墳において,宗教的品物,装飾品,武器が発見されている.「動物様式」の品物や儀礼用壷や輸入品は最大の興味をもたらす(Litvinskiy, 1972).しかし,Saka族はほとんど近づき難い山岳地域のみに住んでいたのではなく,農業に支配されない残余の渓谷にも住んでいた.東イラン言語のグループに関連するSaka族は,BactoriaやSogdの人々とともに,タジクの人々の祖先−古代タジキスタンの人口の基本的層のひとつを構成していた. |
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