6世紀から7世紀の南タジキスタンでは,アム河の北と南の両側にあった二十七の領地の集まりである強力な政治的共同体−Tokharistanが構成された.Gissar渓谷の西部はAhorun(その中心は,Shirkentdarya河岸のRegar地域にあるUzbekontepa都城の地にあった)の領地によって,東はShumanの領地によって占められていた.独立した領地はKafirnigan河下流域とVakhsh渓谷の両方に存在した.

 中世初期,南タジキスタンの渓谷の大部分にとって,この時期には大きな経済的・文化的発展があった.特に,Vakhsh渓谷における6世紀から7世紀にかけての長距離の主要な灌漑用運河建設は注目されるべきことである.その地方の住民は,これをKafyrの運河と称して,その運河の遺跡を完全な明確さでイスラーム期前に関連付けている.その痕跡は百キロメーター以上を辿ることができる.

 ここ,Kolkhozabadの周辺に,Kafyr-kala都城−Vakhsh中世初期領地の首都の遺跡がある.それは三つの自己統制された部分,すなわち,城郭,市内地,市街地に明確に分けられている.城郭を合わせた市内地は矩形の区画(360×306メートール)を形づくっており,塔と掘割を備えた防御壁で全ての側面が囲まれている.方形のプラン(70×70メートル)を示す城郭(都城の北東隅)は,まわりより位置的に12メートル高められ,よく防備されている.

 都城の発掘は1956年から1957年まではT. I. Zeimal,1986年から1969年まではB. A. Litvinskiy,1970年にはE. P. Denisovの監督下で,1973年以降はB. S. Solovievによって実施されてきた.現在,城郭の領域は,その上層部については実質的に完全に発掘されている.城郭の宮殿が存在していた時期は,すでに市の寿命は最終段階(8世紀中葉)にあった.宮殿では,儀礼的接見の広間,祭儀や居住,経済活動のための施設が発掘された.建物は,建築家の幾何学的知識によって検証された,確実な計画に基いて造られている.壁の(日干しレンガと生のレンガによる)土台は非常に完全に施工されている.宮殿の主要施設−入り口ひとつを備えた矩形(19×10メートル)広間で,その全ての壁に沿って粘土の張り出し−Sufaが配されている.広間の中央には,プランで楔形の区域があり,それから東の壁に大きな儀式用の炉があった.2側面をL字型回廊が囲むこの広間は諸施設の複雑な組織の構成に含まれる.

 諸施設の同じ組織に城郭で発掘された小仏教寺院が含まれていた.その中心の施設−方形のドーム状部屋(3.4×3.4メートル)は四方から遠回りの回廊があり,絵画で飾られていた.不幸なことに,土壌の非常に強い塩分−その事実のために,この市の全ての絵画的装飾は実質的に損なわれていた.一つのあるいは他の施設における,あるいは他のまたそれらの配列における壁画の存在を立証することのみは可能であるが,しかし,それらの内容を判断することは不可能である.

 展示ではこの遺跡からの個々の出土物のみが示されており,それらはタジキスタンの芸術文化の歴史全体についての興味をもたらすものである.まさにここでインド文献(Brahmi文字)やアラブ文献の見本や貨幣,物質文化の品物が発見された.

 市そのものの領域での小規模な発掘では,城郭内の主広間に比べて大きさの点をとっても,それほど劣ることのない大きな儀式用の広間を備えた,居住構造物が幾分か明らかとなった.

 明らかに,Kushan期においてさえ,市はこの場所に出現していた.Kafyrkala都城−遺跡には三期−(城郭の)後クシャーン期,6世紀の後半から7世紀の前半そして7世紀後半から8世紀前半−の層がある.城郭について解明された早い時期の建物のプランは後のプランとわずか部分的にではあるもののだいぶ違っていた.何よりも先ず,早い時期に関連した,直径約8メートルの丸いドーム状広間が,同時にそのまま(しかし後に機能し,後の時期に継続する)仏教寺院に建て替えられた.

後クシャーン期の建物は,6世紀後半から7世紀前半の建物の建設によって大規模な破壊を受ける.

 Kafyrkala都城から発見された芸術的品物の優れた資質は明らかに我々を驚かせるべきものではない−間違いなくここは首都だったのである.しかし,婦人の絵のある銀杯,すなわち明らかに高貴な人物が持っていた品物が,Y. Yakubovによって高い山中(Lakhsh 2 古墳,Jirgatali地域,Jayilganより1.5キロメートル)の古墳の一つから発見された.また,石のタイルで覆われた,その墓穴(2.6×1.1メートル,深さ1.65メートル)からの他の副葬品には金のブローチを付けた鉄製の剣もあった.

 Vakhsh市の城郭における仏教寺院の存在は文献資料の情報を完全に証明した.篤信の巡礼者たちはこの国の王や人々が小乗仏教の信者であることを記していた.

 7世紀から8世紀にかけての南タジキスタンにおける仏教の流布についての完全な見解が,他の遺跡−同じくVakhshの支配権領域内にあったAjinatepaの仏教僧院によって次第にもたらされた.しかし,それはKafyr運河の主経路のかなり上流にある.発掘(1960年から1975年)はB. A. LitvinskiyとT. I. Zeimalによって主導され,完全に発掘された.

 AjinatepaはKurgan-Thbe市から東12キロメートルに位置する.プランにおいて僧院は矩形(50×100メートル)である.発掘が明らかにしたように,僧院は二つの部分から構成され,それらのそれぞれ中央には,建物で囲まれた方形の中庭があった.南(僧院)半分で中庭は空いていた.中庭それぞれの側の真中には二つの部分からなる施設があり,それはAyvan(三つの壁があり,開いた側を中庭に向けた施設)を構成し,その後ろには方形(あるいはほとんど方形)のSellaへの通路があった。これらの一対の施設は軸上にあり,互いの関連に従って対称的に位置していた.AyvanはL字型の回廊で互いに結ばれている.これらの回廊から戸口の部分が,後ろの別の中庭や一部屋あるいは二部屋の僧房や経済的用途の回廊状の施設に連絡する.僧院の外側正面(その南角)に付随した施設も(悪い状態で残されて)あった.一階のプランはこのようであった.二階があって,その施設には上りの固定傾斜路で入ることができた,しかし,二階の施設そのものは実際には残されていなかった.

 僧院への入り口は建物の東正面の中央に配され,そこに傾斜路を備えたSella−玄関ホール(玄関のドア−のすぐ内側)がある.その反対の西側のSellaは大きく,僧院共同体の会合に用いる広間であった.

 西側の中央で対となる諸施設をすぎ,他の建物に入る.僧院の北半分はまさに寺院部分であった.この部分のプランは先の部分とほぼ同じである.主な相違は寺院の半分において大きな仏塔によって中庭の中央部分が占められているという事実のみにある.この仏塔は段地のような,十字・星形のプランで,建物の角によって基本方位角(東西南北)に方向に定められている.それぞれの四つの正面には階段がある.繰り返して修理された,段をつけた幅木が仏塔の土台を飾っていた.土台での仏塔最大の寸法は28メートル,残された高さは6メートル以上である.仏塔上段のうえにシリンダー状の円柱が築かれていた.

 中庭の隅には,その形の上で大きな仏塔と相似の,ただし十分の一規模の小仏塔があった.小仏塔は宮殿のような部屋の北正面の諸施設中にもまた建てられていた。これらの建造物についての粘土小模型は外にある仏塔の外見についての見解を与える.これらの模型の一つにおいて,仏教祈祷文が書かれた粘土刻板が発見されている.

 非常にどっしりとした壁(厚さ2.2から2.4メートール)を備えた,僧院の建物は日干し(粘土で補強された土砂)レンガと生のレンガで築かれている.拡張された矩形の諸施設はアーチ,方形の丸屋根,アーチの窓を再建していた.

 Ajinatepaは熟練した建築家(あるいは建築家たち)によって築かれた.明確な調子と幾何学的構成は全体的調和にとって特徴的である.Ayvanの内陣は,「四つのAyvanと中庭の組み合わせ」プランで,二つの部分からなる図面で,小部屋と回廊の組み合わせである.それらは壁と天井の構造の日干しレンガ建築術に特有のものである.−それら全ては深く有機的に統一された建築術の有機体において融合されていた.建築学的形態と要素の自由で大胆な応用をともなった構成の驚くべき秩序と均整がこの遺跡の建築を特徴付けている.

 僧院は豪華に装飾されていた.多くの諸施設の壁やアーチは絵画で覆われていた.壁近くの台座の上や壁に深く掘りこまれた龕の中には,大小の彫像が置かれていた.二つの主要な内陣(中心の施設の北側と南側)には特に多くの彫像があった.南の内陣,中央の台座上には仏陀の大きな彫像(頭の直径90センチメートル)があった.他の二つの台座上にも座った仏陀の姿があった.内陣の壁と同様に,台座の表面も彩色されていた.さらに,一つのケースとして,供養の場面の絵画が残されていた.

 大量の塑像の断片が宮殿のような部屋の中央内陣の堆積中で発見された.それらは様々な大きさ−実物大の像から非常に小さいものまで−で造られた仏教の神々の様々な人物を表現していた.これらの彫像の一部は壁付近の台座の上に位置していた.他のものは,構成要素として,非常に華麗な高浮き彫り作品の中に収まり,それは内陣の壁を飾っていた.

 多量の絵画と大きい彫像は宮殿のような部分の回廊からも発見された.回廊の壁は上から下まで絵画で覆われていた.不幸にも,断片としてしか残されておらず,必ずしも描かれた主題を再現できるものではなかった.明白なのは,仏陀の教説の諸場面について説いている可能性がある.それは聴衆に取り囲まれて表現されており(XXII回廊,XXXII内陣,仏塔中庭の絵画)また施物供養の場面についてである.丸天井の壁画は段ごとに並んだ,千の坐仏の小絵画から構成されている.1.5倍大の坐仏の諸彫像はブロックのような台座の深い龕の中に位置していた.姿勢はそれぞれ異なっていたが,全て規範に基いていた−それぞれは仏陀の生涯中の異なった境涯や活動を象徴している(深い瞑想,説法などの姿勢).涅槃に入り,「眠れる獅子」の伝統的姿勢をとった巨大な横になった仏陀の像は,寺院の半分の東部分,平らで低い台座の上に位置していた.右手は肘で曲げられ,床端の枕(五列の枕)上に置かれている.左手は,腿の上に掌を置いて,体に沿って伸ばされていた.像は完全には残されていなかった.頭と右の手先は失われ,施設の床にばらばらに散らばっていた.胴体部分は損なわれていた.像の値は足裏の大きさ(1.9メートル)から判断することが可能で,像の全長は12メートルを超える.

 「涅槃仏」の保存と抽出は非常に複雑な問題であった.これは,Ajinatepaのほかの彫像と同じく,粘土で造られていた.この作業は,P. I. Kostrov(エルミタージュ美術館)を長とするLeningradからの修復家の大きなグループによって成し遂げられた.像を大きな片に切断した後,それらを結合したのである.更なる修復はA. Donish歴史研究の修復技術研究所において行われた.

 彫像や浮き彫りに混じって,仏陀(仏陀の像はAjinatepaの図像中,中心的位置を占める),菩薩,様々な神,悪魔のような生き物,修行者,高貴な俗人,獣や鳥の姿や様々な装飾的主題による縁飾りなどなどの絵があった.展示では,Ajinatepaの発掘で発見された芸術の遺品の一部のみが提示されている.さらには,物質文化と貨幣の品々のかなりの量が発見された.

 中世初期の時代,南タジキスタンにおける仏教の広い受容について,Kalai Kafirnigan都城の発掘は証言している.その発掘は,(Kafirnigan河の中流域,Dushanbeから南西へ80キロメートル,Leninin地域のEsambay村近郊において)1974年から1980年にかけて,B. A. Litvinskiyの管理下で実施された.都城は北から南へ275メートール,幅100から150メートル(3.5ヘクタールの区域)に広がり,その南西部分で五角形城郭の堀割りによって分断されている.都城は突出部−塔をともなう崩壊した壁で囲まれ,掘割がそれへの通路を遮っている.都城には多くの層があり,表面層は7世紀から8世紀に関連している.

 居住地の中央では,−本来の設計案によれば−回廊で囲まれた,方形(ほとんど菱形)広間が発掘された.広間の中,壁に沿って入り口に向かい合った「舞台」を備えた二段のSufaがあった.中央には高台があり,その上に供養壇が立っていた.木造天井が彫刻で装飾された四本の円柱の上に支えられていた.彫刻された板−例えば向かい合ったクジャクの絵による2メートルの板−が壁を飾っていた.木造梁の装飾には,絡みつく葡萄の蔓の主題が顕著であった.

 この建物(明らかに居住可能な貴族の住居)に隣接して,他の建造物があり,その北半分に小さな仏教寺院があった.その中央は,三側面をU字型の回廊で囲まれ,一つの軸上に二つの入り口を備えた内陣があった.四側面の中,それらの中の一つが四本柱の柱廊式玄関−入り口で,それは取り囲んでいる寺院の中庭に隣接する.

 中央の方形(4.69m×4.69m)内陣には彫刻された像を立てるための突出部のある大きな模られた台座があった.一つの壁に切られた龕には,仏坐像があった.回廊にも坐仏の大きな像をともなった台座があった.回廊の壁とそのアーチは絵画でおおわれていた.二平面の絵画の大きな部分は保存された.上段には坐仏とその側面に相対する二人の人物,下段は,右に動いていく儀礼の列である.

 Kalai Kafirnigan都城の発掘は,芸術の遺品に加えて,6世紀から8世紀の物質文化の多様な品物による広範な複合体をもたらしたのである.