| タジキスタン北部 紀元1000年期中葉 4世紀から6世紀,Ustrushanでは,古代都市(Ura-Thbe市内にあるMugtepa,Kurkat近郊のShirin1‐3の都城跡,Khujandやその他の地域の都城跡)の出現が続き,今まで存在しなかった要塞化された城や都市が現れた. Shirinsay(Syrdaryaの河口)の下流,Shirin1(Kurkat集落の北西4キロメートル)の古代都城跡の発掘は,70年代にN. N. Negmatovの指揮の下で行われた.彼らは,この遺跡を覆っていた層が4世紀から5世紀の特質と関連することを明らかにした.だが,ここでは,6世紀から7世紀のソグドにおいて広まった櫛型回廊型のプランを伴った「商業用」建築物が発掘された. 1974年以来,Kurkatの集落付近で,A. Mirbabaevによって,石製墳墓であるShirin1‐3の都城跡の共同墓地‐(その墳墓は)Shirin山脈山麓の東部と南部に,山裾から50‐60メートルの高さにほられ,一つ一つの間隔は狭く,集団若しくは一人ずつ葬られていた‐の組織的な発掘が行われた.墳墓は埋葬用の壁龕と埋葬部屋(その面積は6‐11メートル四方で,天井までの高さは2‐2.2メートル)から成っていた.作業全体で,30以上の墳墓と儀式用の区画‐ダフマ‐が発掘された.また墳墓内の埋葬は甕と容器で完成されていた.Kurkatの墳墓の殆どは4世紀から6世紀に属する. 北部タジキスタンに於ける他の墳墓‐Langari Hojiyon(Isfara州,Chorku村の郊外の南東にある)の年代は1世紀中葉に定められており,(最近)A. K. Mirbabaevによって調査された.墳墓は約10ヘクタールの面積を占めており,典型的な埋葬形式‐地下埋葬所の中に,側孔のある板製の棺桶を伴った集団用,若しくは単一の墓穴‐であった.この墳墓の遺物は,1世紀の第二期に属する北部タジキスタンとキルギスタンの墳墓について,以前(50年代)に行われた調査にとって付加価値のあるものであった.Langari Hojiyonの墳墓は,この地域に於ける埋葬儀式の発達の新たな段階を指し示している. 北部タジキスタンに於ける初期の城の一つ,村から10km南にあるTudai Kalonの二段の丘(高さ10メートール:宮殿敷地の高さ2.5メートル)は,価値有る層理資料を与えてくれる.Asht遺跡は,1962‐1967年,E. D. Saltovskiyによって調査された.始めのうち(3世紀末‐5世紀初頭),その遺跡は,角に沿って二階建ての長方形の増築が行われた,要塞化された住居プランの中に於いて四角形をしていた.5世紀から6世紀,中心に巨大な儀式用の大広間を伴った二階建ての城は,この場所の防御の目的で建設された.第三期に属する建設物は,保存状態は良くなく,7世紀から8世紀に属する.北部タジキスタン(そしてFergana盆地全体)の領域に関して,この遺跡の発掘作業の結果,年代の基準を設置することができ,その基準から層理の体系が選出された. これらの情報は,北部タジキスタンに於ける,中世初期に属する他の遺跡に関する研究を相当補った.第一に,Ura-Tyube市内にあるMugtepa遺跡の5世紀から7世紀の層がそれであり,それは(Tudai Kalon遺物のように)編年的には,北部タジキスタンの基礎的な中世初期の層理体系(それはBunjikatの廃墟を覆い隠し,7世紀から9世紀に於けるUstrushanの首府であったShakhristan近くの遺跡の発掘,そして遺跡周辺の城砦から求められる)に先立つ. 前面に壁‐宮殿建築(同様の僧院はタジキスタンに於いて既に発掘されていた‐例えば,Penjikentの僧院)の正面のミニアチュールの描写‐を持つKattasay遺跡の貯水池から見つかったオスアリも注目に値する. |
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